高校2年生で英検2級を取得したときのエピソードをお話します

 さて、前回、高校1年生の2学期から英語の勉強を本格化させたことをお話しました。文法は『英文法解説』(江川泰一郎著)と学校の授業で使う問題集で勉強。構文については、『基本英文700選』(伊藤和夫著)と『演習英文解釈 英語の構文150』(高梨健吉著)。そして、リスニングと会話についてはNHKラジオの「英語会話」。
 この中で一番今でもやってよかったと思うのは、『英語の構文150』でした。
 例えば、It is necessary for us to work together for world peace.
                 (私たちは世界平和のために力を合わせなければならない)
という例文についてお話しすると、この
     It is ・・・for A to 不定詞  「Aが~することは・・・である」という決まりきった型を覚えない限り、訳すことができません。個々の単語は優しいのに、Itは後に出てくる「for A to 不定詞」を示す形式主語であって、「それ」とは訳さない。「to 不定詞」の部分が真の主語(真主語)であること、そしてAは「to 不定詞」の意味上の主語であるということを理解しておかないと、解釈できないわけです。
 そうした英文を理解するうえでの決まりきった型となる文章、それが構文なわけです。これを覚えたおかげで、NHKラジオ「英語会話」の英文がほぼすべて理解できるようになりました。それから高校で使用する読解専門の教科書、いわゆるリーダーの教科書も格段に読めるようになりました。
 そうこうしているうちに高校2年生になり、6月に英検2級を受けました。筆記試験(リスニング含む)はパスしました。問題は、2次試験の面接です。一か月後に行われた試験は残念ながら不合格。というのも、3級の時の面接とは違い、渡されたカードに記された英文を読み、自分の意見を述べるという練習をしてこなかったからでした。これは悔しかったです。
 2年生の夏休みは、それまでやってきた教材の総復習に費やしました。2学期には英語担当のH先生にお願いして、週に一回放課後に面接の練習をやっていただきました。女性のH先生は前年までアメリカの大学に留学されていた方で、これまた美しいアメリカ英語を話す厳しいながらも心優しい先生でした。
 そうやって臨んだ11月の英検2級は見事合格しました。英検の面接試験を受けたことがある方はお分かりになるかと思いますが、分からない単語や言い回しを面接官がしてきたときはパニックになりがちです。事実、私は1回目の面接でパニックになりました。
 しかしながら、2回目の受験で合格できたときに感じたのは、「英語力を伸ばす大きな秘訣は場数を踏むことだ」ということでした。私はH先生という素晴らしい「面接官」に何度も英語で質問され、その質問がよく理解できなかったときは"I beg your pardon?(すいません、なんと仰ったのですか?)や”Excuse me,could you  say that again?(すいません、もう一度いってくださいませんか?)というセリフを自然に言えるようになっていたのです。そして、ラジオ「英語会話」で英米人がいかに自分の意見を論理だてて話すかに気を付けて過去のテキストを読み直し、音読暗唱に努めました。
 H先生に合格証書を持っていきお礼を述べたところ、「私の方こそ勉強になったわ」とニコニコしながら喜んでくださいました。ちょうどその頃学校で催された三大予備校の一つ河合塾全統模試で英語は偏差値69を取り、学年350人中1番を取りました。この数字が後に、志望大学を決める際の大きな要因となったことはいうまでもありません。
 H先生は翌年、他校に転出され、それ以来お会いしていません。38年たった今も先生のご恩は忘れられません。

To be continued.

英語熱が再燃した今、どんな教材を使ってきたかお話します。

 西山千先生との出会いは、高校受験に失敗し灰色の青春時代を歩き始めそうになった私に、天からの啓示を授けていただいたような気がしました。講演会から帰宅したその日のうちに近所の書店に赴き、中学2年の3月以来聞いていなかったNHKラジオ講座を聞き始めるために、東後勝明先生の「英語会話」のテキストを購入しました。その日の夜から番組を聞き始めたのはいうまでもありません。
 東後先生は早稲田大学を卒業後、ロンドン大学修士・博士課程を修了された方だったので、美しいブリティッシュ・イングリッシュを話されていました。番組の内容も大変実践的でかつ興味深いものだったこともあり、中学一年の時に「基礎英語」と巡り合った時のような興奮を覚えたものです。
 ほどなく高校一年の2学期が始まるとすぐに、英語担当のT先生のもとを訪れ「先生、英検2級を取るにはどうしたらいいですか?」と質問しました。西山先生との出会いと英語熱が再燃した旨を伝えたところ、「今聞いているNHKラジオ講座のテキストを丸々暗記していけばすぐに受かるよ」とさらりとおっしゃる。
 T先生はご自身が高校生の時にAFS(アメリカン・フィールド・サービス)の交換留学制度を利用してアメリカに一年間留学された方でした。アメリカ英語の美しい発音で指導してくださる若きジェントルマンで、「私もNHKのラジオ講座のテキストを丸々暗記していったから留学先で英語に困ることはあまりなかったぞ」というのです。
 「同時になんでもいいから英文法の参考書を買って、学校の文法の問題集をしっかりやったほうが上達は早いぞ」
 善は急げ、ですぐさま書店に向かい、英文法の参考書をいくつか比較検討。そのなかでも「これは面白そうだ」と思った本が、後に不朽の名著と知ることになる江川泰一郎先生の『英文法解説』(金子書房)でした。この本は現在NHKの「ラジオ英会話」を担当されている大西泰斗先生もその著書の中で勧めている傑作の一つです。
 その日問題集で解くべき文法項目を『英文法解説』で勉強し、すぐに問題集を解く。その繰り返しで問題集を2、3回繰り返しました。その後、T先生から「次は構文を扱った参考書なり例文集を使って、構文を500個前後丸暗記すれば文法に関してはほぼ完璧になる」とアドバイスを受け、当時、受験英語の神様と称された駿台予備校講師、伊藤和夫先生の『基本英文700選』(現在は絶版。新シリーズがあります)を買ってきました。40代後半以降の方ならこの『700選』に挑戦された方も少なくないでしょう。私は一日あたり70の例文を書きながらかつ音読を繰り返し10日で終了させ、ひと月で3回繰り返しました。さらに、ポケットサイズのメモ帳に例文を書き込み、常にポケットに入れて学校の休憩時間や通学時間に開いては、ぶつぶつと小声で音読しました。
 ただ、この『700選』の欠点は解説が少なすぎて、なぜこの構文がそうした意味になるか分からない例文が多かったことです。そこでより解説の多くて英文解釈の練習も兼ねた参考書として高梨健吉先生の『演習英文解釈 英語の構文150』(美誠社/現在は絶版)で勉強をしました。この『英語の構文150』も構文参考書としては大変な名著で、現在でも著者あるいは監修者が変わりつつも、初版のコンセプトを受け継ぎながら新しいシリーズが販売されています。丁寧な訳文と解説が魅力なのでお勧めしたい一冊です。
 さて、本日は英語熱が再燃した高校一年の後半、どういうテキストで勉強してきたかを記しました。次回は、この勉強を経て、いかにして英検2級を取得したかを述べたいと思います。
To be continued.
 

私の英語遍歴(エピソード2)-同時通訳の神様・西山千先生の言葉に発奮する

 さて、前回は同時通訳の神様と謳われた西山千(にしやません)先生にぶしつけな質問をしたことを記しました。
 先生は1969年7月20日アメリカ合衆国アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した際の同時通訳者でした。この世紀の大偉業に通訳者として臨んだ西山先生は、大いに興奮し緊張したそうです。
 そして月着陸船イーグルからニール・アームストロング船長が月に降り立った時、こういったそうです。
"That's one small step for man."
  このとき先生は一瞬「!?」となったそうです。アームストロングは「man」の前に不定冠詞の「a」をいわなかったから。そのため先生は「人類にとって小さな一歩です」と通訳した。生放送だったため、「for man」のあと何といったか聞こえなかったそうです。むにゃにゃとしか。
 その夜の7時のニュースが放送される前に、アメリカ・ヒューストンにあるNASAアメリカ航空宇宙局)からアームストロングが語った全文のテレックスが来て、何としゃべっていたかが分かりました。彼は”One step for man,one giant leap for mankind."といっていたのです。やはり不定冠詞が入っていない。「a man」ではなくて、「man」といっている。
 当時は、「man」といえば人類を指したそうです。私が先生にこの話を伺った1982年頃には「humankind」と表現すると仰ってました。
 要するに、アームストロング船長の英語が不正確だったのです。西山先生は、夜のニュースで同時通訳した際、「一人の男には小さな一歩、人類にとっては巨大な飛躍です」と正しく通訳したそうです。けれども、最初の生放送で通訳した映像と音声が記録されており、その後もずっとそれがメディアで使用されることとなったそうです。
 「当時の通信環境を考えれば、無理もないと慰めてくださる方もいらっしゃいましたが、あれは”世紀の誤訳”として語り継がれてしまいました。」
 先生はニコニコしながらつい昨日のことのように当時のことを語ってくださいました。その話をきっかけに、ランチ会に出席した人たちは次から次と先生に質問を寄せていました。中には、自分も通訳を目指して勉強しているが、どのような努力が必要ですかといった質問も飛び、その一つ一つに先生は丁寧な回答をなさっていました。
 ランチ会も終わりに近づいた頃、私はもうひとつ質問しました。「私も将来は先生のように英語を使う仕事をしてみたいと思うようになりました。今やっておくべきことは何でしょうか?」
 すると先生はこう答えられました。
「あなたぐらいの年齢の人にテクニックや技術論を話してもあまり意味がないと思います。ただ、私はいろんなところで話していますが、日本人が英語を身に付けるうえで大切なことはハングリー精神だと思います。英語がちゃんとできるようになるのは、自分の生活とか、自分が達成しようとしている目的に、英語がどれだけ大切であるか。自分のこれからの生活に関わるものだったら、ハングリー精神で努力して一生懸命やるわけです。ハングリー精神があれば英語は自然と上手くなるものですよ。」
 高度経済成長期に生まれ育った私には、先生のおっしゃるハングリー精神という言葉がその時すぐには理解できませんでした。しかしその後、大学受験や就職、転職、そして病気など様々な経験をするようになって、もうすぐ55歳になろうとする今、先生のお言葉が分かるようになった気がします。このブログを開設したのも英語学習を再開したのも、ハングリー精神によるものだと。
 西山先生は2007年7月2日、永眠されました。享年95。

 

 

私の英語遍歴(エピソード1)――小さな挫折と偉大なる人物との出会い

 さて、前回は私の英語との出会いをお話させていただきました。本日は、その後、どのように英語を勉強していったか、すなわち私の英語遍歴を失敗談を交えて述べさせていただきます。
  前回も触れましたが、中学2年生の秋に英検3級(中学卒業程度)を取得したことで気分を良くしたことと、リンガフォンの米語スタンダードコースのカリキュラムを一年間で修了したこともあって、次は英検2級だ!と意気込んでおりました。
 ところが、高校入試ですべり止めに受けた高校がまさかの不合格となり、第1志望校を断念して第3志望校に行かざるを得ないという挫折を味わったことで、英語から遠ざかることになりました。
 高校に入っても楽しくなく、みじめな日々。英語の授業も、予習をしないで臨んでいたから次第に分からなくなりました。英語の勉強をやっている方はうすうす気づいていらっしゃると思いますが、英語の勉強は毎日5分でも10分でも続けていればかろうじて現状維持はできる。しかし、全くやっていないと、ある日突然、教科書の文章が全く分からないという現象に陥ります。
 これを数学と対比すると興味深いことが判明します。それは、数学という教科は、もし次の日の授業の予習をしないで臨んだら、その日の授業はさっぱり分からない、という経験をするものです。数学の公式や定理の意味を予め理解しておかないと、授業についていけないわけです。なので、否が応でも予習せざるをえない。
 さて、灰色で始まった高校生活にちょっとした変化が訪れたのは、ある人との巡り合いでした。高校一年生の夏休みに、中学三年生時の担任で英語の先生だったN先生から連絡があり、「今度の日曜日福岡市で、アポロ11号月面着陸の同時通訳を行った西山千(にしやません)先生の講演会があるからいかない?」と誘われたのでした。N先生は大学を出てまだ数年の若い女性の先生で、とってもチャーミングな方だったので二つ返事で同行させてもらいました。
 当日は、西山先生とイギリス人の詩人の男性との対談形式の講演会でした。それゆえすべて英語で行われたのですが、来場者の多くが英語教育に関わる人々だったこともあり、講演会後の質疑応答もすべて英語でなされるなど大変刺激的な講演会でした。残念ながら英検3級の私では到底聞き取れるわけもなく、約90分間は念仏でも聞いているかのような時間でした。
 しかし、その後、来場者の有志10人ほどと西山先生を囲んでランチ会が行われた時でした。参加者の人々が、同時通訳の神様とまで謳われた西山先生を前にしてたじろいだのでしょう、先生の真正面の席に誰も座ろうとしない。そこで私は図々しく先生に一礼してその席に座り、「先生、アポロ11号の月面着陸の時には、先生は大失敗をしてしまったと伺いました。その時のエピソードをもう少しお話しいただけませんか?」
 すると、西山先生はニッコリと微笑まれ、「あの時は私も『やっちゃったぁ』と、今思い起こしても冷汗が出るんですよ」と切り出されました。
 さて、今回はここまでといたします。同時通訳の神様・西山先生は何を大失敗したのかを次回詳細に記させていただきます。

To be continued.


 

 

 

50歳で英語に目覚めるまでの私の英語との出会いを語ります

 前回、51歳にして大学院進学のために必要な英語力をつけようと決意したことをお話しました。あれから3年、毎日、英語と格闘していますが、その前に私の英語との出会い、そしてその遍歴を少し述べさせていただきます。
 私の英語との出会いは小学校を卒業する直前に担任の先生が、「中学に入ったら、英語という科目が新しく始まります。そこで紹介したいのがNHKのラジオ番組『基礎英語』です。アメリカ人の先生の綺麗な発音が学べますよ。興味のある人はテキストを買って聞いてみてください。」
 当時は真面目な野球少年だった私は、早速近所の書店でテキストを購入(確か130円だったと思います)。本文に目を通すと、何と読んでいいやら分からない。それでも放送を楽しみにして、4月の開講日を迎えたのでした。担当は小島義郎先生、レジナルド・スミスさん、マクチン・レナードさんでした。
 Lesson1の本文は確かこんな感じでした。

Michael: Hello,Jane!
   Jane: Hi,Mike!

アメリカ人は知人に会った時にはこう挨拶するんですよ」と小島先生の解説がありました。そして、レジナルドさんとマクチンさんの後に続いて、発音練習を繰り返しました。この時は興奮しました。初めて聞く英語。なんと心地いいんだろう!
 それからというもの、夕方の確か18:20から始まる20分の番組を熱心に聞くようになりました。たった20分のレッスンはあっという間に終わるので、次の日が楽しみで仕方がありませんでした。
 さて、中学の入学式も終わり、本格的に授業において英語を習い始めるのですが、すでに「基礎英語」で予習をしているので、こちらも楽しくてなりません。あの頃は、クラスのみんなが小学校から上がってきたばかりなので、まだ子供気分が抜けておりません。なので、英語の先生に「リピート・アフター・ミー(私の後について発音してください)」と促されるまま、みんなで大きな声をだして発音練習したことが懐かしく思い出されます。

 このように私は英語と出会い、そして英語への恋心は日々大きくなっていくのでした。2年生になったら松田徳一郎先生の『続基礎英語』。この番組を聞くだけで、中2と中3の文法がすべて習得できたので、試しに受けた英検3級が合格できました。
 順当にいけば、3年生になったら東後勝明先生の『ラジオ英語会話』と行くつもりだったのですが、ちょうど続基礎英語のテキストに載っていたリンガフォンという語学教材(米語スタンダードコース)の広告がとても魅力的に映り、父親に頼み込んで購入してもらいました。そして毎日1レッスンに約2時間ほど時間をかけて勉強し、米国英語の発音や言い回しの特徴を1年間かけて習得しました。
 さて、ここまでは英語との出会いがNHKラジオ講座だったことをご紹介しました。ちょうど、4月からはNHKのラジオ・テレビによる英語講座が新年度を迎えます。私も、新しく始まるという講座を楽しみにしているところです。書店にはテキストが並び始める頃ですので、一度足を運んでテキストの内容を確認してみるのもいいかもしれません。一般的には、少し自分より難しめの番組を選ぶのがいいそうです。
 次回は私の英語遍歴を小さな挫折とある人との巡り合いを交えてお話します。

To be continued

 

私はなぜ50代に入って英語の勉強を始めたか

 初めまして。
 私、コージと申します。現在、54歳。フリーランスのエディター(編集者)をやっております。ペンネームはエディター・コージといいます。
 ブログをやるのは10数年ぶりになります。その頃は、某ポータルサイトが無料で提供していたブログサービスで日々の雑感を綴っておりました。
 とはいえ、ブログをやっている、あるいはやっていた方ならご経験があるかと思いますが、毎日更新するのは案外大変で、気が付いたらパッタリと更新をやめ、そのままとなりました。
 前置きはここまでといたしまして、私が新たにブログを開設した理由と動機を簡単に述べさせていただきます。
 それは、50代に突入した時から始めた英語学習の悪戦苦闘ぶりを、残していきたいと思い立ったからです。
 なぜ英語か?
 それは、48歳の時、ある持病を悪化させてしまい、391日の入院生活を送ったことがきっかけでした。それまでは四十路も後半というにもかかわらず、酒に溺れる荒れた生活を送っていました。そういう私に神様は天罰を下したのでしょう、ある日猛烈な胃痛に襲われ、緊急入院。前述した通り、退院まで391日かかりました。
 入院生活をしたことがある方ならご理解いただけると思いますが、夜、消灯時間(21時前後)が過ぎると病棟はナースステーション(詰所とも)以外は真っ暗になります。
ベッドに備え付けのテレビも消して、枕もとのライトもスイッチオフしなければなりません。
 そうなると、必然的に眠るしかないのですが、21時に眠りにつくというのは普段からそういう習慣がある人しかできないものです。ベッドに横になって暗い天井を眺めると、これまでの人生をあれこれと考え巡らし、いやでも反省してしまうものだと思うのです。少なくとも私はそうでした。
 391日間の入院生活で考えたのは、「退院したら勉強しよう」ということでした。ただ、何を勉強するかは決めておらず、大学で専攻した法律を学び直そうか、得意だった英語あるいはそれ以外の外国語を学習しようかと漠然と考えるようになりました。
 病院を退院して久しぶりに会った高校と大学も同じ学校に通った友人に「人生をやり直すつもりで大学院にでも進んだらどうか。新しい何かを見つけられるかもよ」と勧められました。
 その言葉にハッとした私は、「よし、一つ頑張って大学院に進もう!」と一念発起しました。第一志望は母校のW大学。しかしながら、W大学は私立なため学費が高い上に、受験に際して研究計画書以外に英語力を示す成績表(TOEICTOEFL、IELTSのいづれか)を提出する必要がある。また、上京して仕事をしながらとなると学問と経済面の両立も大変だとの思いに至り断念。地元福岡の国立K大学を受けることにしました。
 K大学の大学院は研究計画書の他、出身大学の卒業証明書、成績証明書を提出するのみでよく、英語の試験を課したりTOEIC等の成績表を要求されることはありませんでした。
 第一次試験となる書類審査はパスしたのですが、肝心の二次試験(口頭試問)で「専門書はちゃんと読みましたか?あなたの研究計画書にはその痕跡が見当たりません」と厳しく問い質され、あっけなく不合格。この時は悔しかったです。とはいえ、準備が足りなかったために、しっかりとした研究計画書が書けていなかったのは事実。わが身を恥じました。
 しかしながら、たった一回のチャレンジで諦めるのはやはり悔しい。私は、ここで母校W大学の大学院にいくことを決意。51歳の誕生日のことでした。
 W大学は前述の通り、英語力の成績表が求められます。そこで、早速、一番受験料の安いTOEIC(当時5,000円台後半)を受験しました(ちなみに、TOEFLは235ドル=約25,000円、IELTSは25,380円)。
 すると、485点という有様。大学生だった四半世紀前に受験した時は730点前後だったので、何もやらないとここまで落ちるのかと大いに反省しました。
 ここからが私の50代からの英語学習奮闘記が始まるわけです。
 本日は、ブログ初投稿ということもあり、ここまでといたします。

 To be continued