さて、前回は同時通訳の神様と謳われた西山千(にしやません)先生にぶしつけな質問をしたことを記しました。
先生は1969年7月20日、アメリカ合衆国のアポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した際の同時通訳者でした。この世紀の大偉業に通訳者として臨んだ西山先生は、大いに興奮し緊張したそうです。
そして月着陸船イーグルからニール・アームストロング船長が月に降り立った時、こういったそうです。
"That's one small step for man."
このとき先生は一瞬「!?」となったそうです。アームストロングは「man」の前に不定冠詞の「a」をいわなかったから。そのため先生は「人類にとって小さな一歩です」と通訳した。生放送だったため、「for man」のあと何といったか聞こえなかったそうです。むにゃにゃとしか。
その夜の7時のニュースが放送される前に、アメリカ・ヒューストンにあるNASA(アメリカ航空宇宙局)からアームストロングが語った全文のテレックスが来て、何としゃべっていたかが分かりました。彼は”One step for man,one giant leap for mankind."といっていたのです。やはり不定冠詞が入っていない。「a man」ではなくて、「man」といっている。
当時は、「man」といえば人類を指したそうです。私が先生にこの話を伺った1982年頃には「humankind」と表現すると仰ってました。
要するに、アームストロング船長の英語が不正確だったのです。西山先生は、夜のニュースで同時通訳した際、「一人の男には小さな一歩、人類にとっては巨大な飛躍です」と正しく通訳したそうです。けれども、最初の生放送で通訳した映像と音声が記録されており、その後もずっとそれがメディアで使用されることとなったそうです。
「当時の通信環境を考えれば、無理もないと慰めてくださる方もいらっしゃいましたが、あれは”世紀の誤訳”として語り継がれてしまいました。」
先生はニコニコしながらつい昨日のことのように当時のことを語ってくださいました。その話をきっかけに、ランチ会に出席した人たちは次から次と先生に質問を寄せていました。中には、自分も通訳を目指して勉強しているが、どのような努力が必要ですかといった質問も飛び、その一つ一つに先生は丁寧な回答をなさっていました。
ランチ会も終わりに近づいた頃、私はもうひとつ質問しました。「私も将来は先生のように英語を使う仕事をしてみたいと思うようになりました。今やっておくべきことは何でしょうか?」
すると先生はこう答えられました。
「あなたぐらいの年齢の人にテクニックや技術論を話してもあまり意味がないと思います。ただ、私はいろんなところで話していますが、日本人が英語を身に付けるうえで大切なことはハングリー精神だと思います。英語がちゃんとできるようになるのは、自分の生活とか、自分が達成しようとしている目的に、英語がどれだけ大切であるか。自分のこれからの生活に関わるものだったら、ハングリー精神で努力して一生懸命やるわけです。ハングリー精神があれば英語は自然と上手くなるものですよ。」
高度経済成長期に生まれ育った私には、先生のおっしゃるハングリー精神という言葉がその時すぐには理解できませんでした。しかしその後、大学受験や就職、転職、そして病気など様々な経験をするようになって、もうすぐ55歳になろうとする今、先生のお言葉が分かるようになった気がします。このブログを開設したのも英語学習を再開したのも、ハングリー精神によるものだと。
西山先生は2007年7月2日、永眠されました。享年95。